【追記あり】第47回 一から始める新選組勉強会(とお知らせ)

こんばんは。遅咲きの桜鬼です。

先日ブログに書いたように、釣先生による【一から始める新選組勉強会】に父と参加してきました。今回は【新選組物語(子母澤寛・著)】より、芹沢鴨と山南敬助についての講義。

まず最初に、お断りを。

新選組の本に携わっている若手の新選組研究家を支持する方は、ここでお帰り頂くほうがよろしいかと思われます。

また、ご自身の考えと異なる主張を受け入れられない方もここでお帰り下さい。

今までの自分なりの理解とは異なる内容でも柔軟に受け入れつつ、新選組についての知識を増やしていきたいという考えをお持ちの方のみ読み進めて下さいね。

かなり長い記事になりそうですので、お飲み物を片手にお時間のある時にごゆるりとどうぞ。

では、参りましょう

 

今回のシラバスもギッシリと情報が詰まっていて、何とA3サイズ8枚分

前回と大きく違ったのは、ほとんどシラバスは使わず、釣先生が豊富な知識を縦横無尽に語るスタイルだった点。どこにその情報が書かれているか探しつつ、自分の乏しい知識を引っ張り出すのに忙しくて、頭がフル回転していました

「新選組について何も知らない人には付いていくのがかなり大変な勉強会だったね」というのが、父と私の共通認識でした。

一番の焦点は(というか、ほぼ、この話題だけで終わったと言っても過言ではない)、芹沢鴨の亡くなった日について。

元々、9月18日というのが定説でしたが、新選組研究家として有名な若手数名が9月16日説を取り上げるようになったようです。

彼らの主張と釣先生の見解は下記の通り。

天気

【新選組遺聞】の中で、八木為三郎さんが「事件当夜は土砂降りの雨だった」と語ったと子母澤寛さんは記しています。

そして、【幕末維新京都町人日記(高木在中・著)】には文久3年9月16日が雨降。夜同断。18日は晴天、夜同断。という記載があるようです。

また、【維新史料綱要】という5冊からなる資料の巻四の9月16日に新撰組頭取芹沢鴨及隊士平山五郎、京ニ於テ殺サルという記述があるそうです。

これによって、若手数名は八木為三郎さんの雨が降ったという述懐と雨だったと書いた高木在中の日記および維新資料綱要を照らし合わせ、芹沢鴨が死亡したのは9/16という見解を発表。

釣先生ご自身は【幕末維新京都町人日記】だけでなく、【維新史料綱要】やその原本となった【幕末維新史料稿本】、また【維新階梯雑誌】なども確認なさっています。

例えば、今回のシラバスにそのコピーが掲載されていた【維新階梯雑誌】の文久3年9月16日の日誌。

確かにこの史料には芹沢鴨と平山五郎がこの日に殺害されたという記述が見られるのですが、亡くなった場所は材木屋になっています。

芹沢鴨と平山五郎が亡くなった場所は八木家(壬生)であったことは間違いないはずなのに、殺害現場が違っている。

また、文久3年9月16~18日にかけての天気についての記述が見られる日記は下記の通り。

谷山要助日記:
9/16 、9/17 朝之内雨後晴、9/18 晴

勧修寺経理日記:
9/16 、9/17 晴、9/18 晴入夜雨

つまり、9月16日説を唱える人たちが根拠とする史料には確かにその日が雨または殺害された日とあるものの、信ぴょう性が乏しい部分があります。その上、9月16日が晴れだったと記載された史料も現存している訳です。

もし土砂降りであったなら「辺り一面、血の海(八木為三郎さんの話)」ということにはならず、泥も混ざってグチャグチャだったはず。よって、9月16日が雨だったという記述のある史料だけを真に受けるわけにはいかないのではないかというのが釣先生の考え。

【新選組遺聞】にある「大雨だった」という部分は、子母澤寛さんの創作というのが釣先生の現時点での見解です。

墓碑
壬生寺に最初に建てられた芹沢鴨・平山五郎のお墓にはハッキリと9月18日卒という字が墓碑に刻まれていました(シラバスにはその写真も載っています)。

ところが、建て替えられた2代目のお墓には「卒」の文字が消えてしまっていたことが物議を醸し出した原因の一つのようです。ちなみに、現在(3代目)のお墓は初代の復元という形をとった為、「9月18日卒」という文字が刻まれているそう。

2代目で「卒」の文字が消えたことによって、9月16日説を唱える人たちは9月16日に死亡、9月18日に葬儀が執り行われたという主張をしているそうです。

暦(六曜)
上記の9月16日に死亡、9月18日に葬儀が執り行われたという主張ですが、旧暦の六曜は決まっていたようで、シラバスには旧暦の六曜表が12ヶ月分掲載されていて、9月18日は友引とあります。

昔も今も、友引に葬儀は行ないません。

この点について、9月16日説を主張する方々は神道による葬儀のため六曜は無関係と言っているようですが、文久の時代はほとんどが仏教徒であり、芹沢家のみならず近藤家も土方家ももちろん仏式による葬儀を行なっていることは確認済みとのこと。

また、八木為三郎さんの話として、「坊さんなども大勢来て」という一文があり、神道であれば宮司という名前になるのではないか・・・というのが釣先生の考え。

9月16日説を主張する理由として挙げられているのは、下記の点。

 【幕末維新京都町人日記】を始めとする史料に9月16日との記述がある
 2代目のお墓から「卒」の字が消えたのは、9月18日説を覆す証拠
 9月18日は葬儀が行なわれた日であり、亡くなったのは9月16日(神道式)

これに対して、上記に挙げた理由などを勘案した上で現時点では9月16日説を唱えるには証拠が乏しいと釣先生は考えています。また、壬生寺のご住職の認識も9月18日であるにもかかわらず、9月16日説を唱える若手の面々。

彼らが9月16日説を支持したい理由(本心)についてはここでは触れませんが、新選組研究家として名を馳せている方々がこんな姿勢で良いのか・・・と、これから先が思いやられます。

9月16日死亡説を確定付けるような史料が出てくる可能性が無いとは言いませんが、現時点でこれを本筋とするにはあまりにも稚拙だと感じました。

もっと多角的に事実を検証するような研究家が出てくることを心から願ってやみません。

もちろん、私自身が調べたことではありませんので、受け売りと言われれば反論は出来ません。

でも、シラバスに9月16日を示唆するような史料のコピーや文献をちゃんと提示して下さった上で、そうではない資料や数字を使った検証も載せて下さっているので、釣先生がご自身の信じる道を正しいと主張したいがためだけに異論を唱えている訳では無いことは分かります。

釣 先生の資料や言動からは「本当に正しい情報はどれか?」と真摯に解明しようとしているお姿しか感じられず、何故このお方が世間からの脚光を浴びないのか不思議。と言うより、むしろ納得がいかない。
勉強会で釣先生が何度か仰っていた言葉で印象的だったのは、

研究家はしっかりと引用先を用いて情報を正しく伝えることが大事
その引用を検証した上で世間に公表すること
その後の研究で間違いが見つかった時は直ちに訂正する謙虚さ

新選組研究家として世間に認知されている方々が歴史を曲げるようなことをしてどうする

某歴史学者の新選組に関する本が9月16日説を挙げている点についても釣先生が言及なさっていたのだけど、非常に残念としか言えません。実は最近立て続けにその本が紹介されている記事を目にしていて、手元にある本を全て読み終えた後に読もうと思っていたのですけど

まぁ、でも、情熱を持って新選組を研究していることには違いないと思うので、これからに期待とすべきなのかもしれませんね。

新選組については初心者の私ですが、自分の情報だけが正しいなどという偏った考えを持たないよう、謙虚さと貪欲さを併せ持って学んで行きたいな~と思います。

お知らせ

最近MacBookのiOSをアップデートしたことと関係があるのか、たった1年弱しか使っていないのにもうMacBookが壊れ始めたのか分からないけれど、アメブロが全然立ち上がりません

インターネットが細切れに落ちるので何らかの不具合なのだと思うのですが、更新するまでに何度か試してやっとアメブロを開けたと思ったら記事の編集画面にたどり着くのにまた時間がかかる・・・という状況が続いています。

なので、Word Pressに新選組のブログを立ち上げて、アメブロから去るかもしれません。または、アメブロと連動させるプラグインもあるみたいなので、Word Pressで更新してアメブロに記事更新のお知らせを出す方法を調べてみようと思います。

旅行の準備をしていないのに何やってんだか・・・という感じですが

取り敢えず、お引っ越しも視野に入れてアメブロのデザインを一番シンプルなものに変更しました

 

6 件のコメント

  • SECRET: 0
    PASS:
    更新サンキュ(*≧艸≦)
    芹沢さんの今のお墓が
    最初のお墓を再現されたのは聞いたことあるけど
    2代目の「卒」の話は初耳!
    あと、16日が友引ってことも。
    ってもしかして、聞いたんかもやけど
    記憶にない…(爆)
    私らは直接史料を読み解くわけじゃないし
    研究された方々の発表を聞くだけだから
    こっちも話を聞く人を選ばないとダメって
    改めて思ったなぁ( ̄▽ ̄;)
    勉強になったわーヽ(*´з`*)ノ

    • >polarisさん

      お待たせっ♪ I wrote this exclusively for you(あなたに向けて書いた記事なの)…って感じよ(^_^;) 

      すごく長くなった割には分かりづらい内容で、文字で伝えるのは難しいな、と改めて思いながら書いていました。

      初耳の情報を提供できて良かった。

      巷で新選組研究家として有名だからって彼らが正しい訳ではないんだって知ったわ(>_<)自分で調べられる範囲で調べて、仮説をたてて、そして検証する。私たち一般人はそういう積み重ねをちゃんとやってから発表しているのだと思っているけれど、そうでは無いことが分かって勉強になったよ。

  • 命日が9月16日で確定的な雰囲気になってるのはどうもおかしいですね。
    芹沢鴨の出身に関して新説が出ているらしいです。
    これまで芹沢村の芹沢家の文政九年生まれの三男だと言われてきましたが、行方芹沢家に文政九年生まれの四男長谷川庄七がいたり、幼名と言われていた「玄太」が「兵太」という事が分かり、別人でこの人が三男ではないかとの説があるようです。水戸の分家が芹沢鴨の出身なのではないかと言う話にもなっているようですね。
    霊山歴史館紀要の最新号にはそれについて論文が掲載されているようですよ。
    三男説を最初に主唱されたのは釣氏ですが、釣氏の姿勢であれば一考して頂けると思います。意見を伺いたいところですが遠方ですので、何かありましたら伝えて頂ければと。

    • >小島さん

      初めまして。コメントありがとうございます。

      私自身、新選組に興味を持って3ヶ月ほどでまだまだ勉強不足なのですが、芹沢鴨の出自については不明な部分が多いと見聞きしたことがあります。

      小島さんが教えて下さった情報が検証の上で史実として認められるような発見となれば、他の新選組に関する情報もまたまだ期待できるかもしれない…という点でワクワクしますね。

      釣先生へのご伝言の件ですが、来月の勉強会で覚えていられたら確認しますね。ただ、私自身が理解出来ていない内容を伺っても実りが少ない気が致しますが(>_<)

      釣先生がメールをご利用かどうかは分かりませんが、お尋ねになってみてはいかがですか?釣先生ならきっと喜んでお話して下さると思います。

  • これは難しい問題ですね~
    遅咲きの桜鬼さんが、真摯に史実を探究したいとお考えなのは、大変よくわかります。

    私の場合、釣先生のお話を伺えば18日が正当に思え、16日説を読めばそれが順当のようにも思えて、ずっと判断を保留したままです。
    16日説の根拠はここに挙がっている他にもあるようなので、もし機会があれば提唱者の見解を読んだり聞いたりなさってみては?その上で18日説を支持されるのもよろしいかと存じます。

    また、この件に限らず、異説があること自体は悪くないと思います。
    多様な可能性の検討が、研究の上では大切ですから。

    ブログ移転なさってから初めてのコメントなので、ドキドキします(笑)
    エラーにならずちゃんと投稿できますように。

    • 東屋梢風さん

      こんばんは。

      コメントありがとうございます。
      こちらも承認後に投稿という形式ですが、問題なくコメントを拝受いたしました。

      東屋梢風さんのコメントを読んでから改めて記事を読み返したのですが、かなり井の中の蛙みたいな雰囲気が漂っているように感じて恥ずかしく思いました。これでは、検証もせずに釣先生の考えが正しいと言っているようなものですね・・・(>_<) 修正しようかとも思いましたが、こういう未熟な部分も学びの変遷だと捉えることにして、敢えてこのまま残すことにしました。 焦点となっている死亡日については、天気ですら雨と書いてある文献もあれば晴れと書いてある文献があるからこそなのですよね。それはつまり解明できている部分が少ないということ、新選組についての研究がまだ始まったばかりということもあるのでしょうね。 まだまだ時間はかかりますが、少しずつ本を読んで知識や情報を増やして行きたいと思います。東屋梢風さんのコメントのお陰で、冷静になれました(笑)いつもありがとうございます!

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