新選組の足跡に触れる京都への旅④

 

 

京都2日目の朝も快晴でスタート!

京都新聞旅行社が主催する「霊山歴史館・木村武仁学芸課長と巡る 新選組の幕末京都」という日帰りバスツアーにターボさんと参加しました。

 

ここから先は完全なネタバレとなります。

9月のこのツアーに参加予定の方、出来ればツアー参加後にお読み下さい。とても充実した内容のツアーですから、何も情報がない状態で参加した方が絶対に楽しめます!!

ただ一点だけ注意点を。

バスでの移動は2割くらいで、ほとんどが徒歩での移動になりますので、歩きやすい服装と水分補給を心がけて参加なさることをお勧めします。

 

では、ツアーの感想記を続けますね。

私たちが宿泊したホテルのすぐ目の前が集合場所だったので(これも偶然!)、迷いようもないほどの近さだったのは有り難い。集合時間の10分前にお互いチェックアウトを終えてロビーで待ち合わせ、集合場所へ。

バスは席が決まっていて変更不可と言われたので、「えー、それなら二人一緒だって伝えておけば良かったよ(>_<)」と思いながら座席表を見たら、私たち隣同士!! もう何もかもが偶然なのに完璧すぎて、笑っちゃう。申し込み順に席が決められていたらしく、1番最初に申し込んだターボさんと2番目に申し込んだ私っていう形。出会うべくして、出会った私達なんだな〜って嬉しくなっちゃいました♪

 

ガイドを務めて下さるのが幕末史を専門に扱う霊山歴史館の学芸課長さんと言うことで、「八木邸には行かないんだな」くらいの理解力で参加したマイペースな私は、完全におんぶに抱っこ戦法での参加です。どうせ連れて行ってもらうだけだし(^_^;)

・・・が、もう一つの集合場所である四条大宮駅で京都新聞旅行社の添乗員さんから爆弾発言が!!

何とこのツアー、ほとんど徒歩によるものになるらしい。

マジですか!?それなら事前にそうと言って下さいよ。知っていれば、ガーデンパーティーなんてかさばるバッグじゃなくて、もっと身軽な格好で参加したのに・・・。

でもね、私ったら何をどう思ったか(viva! 寝不足の脳ミソ!ってヤツですよ)、収納力は乏しいけれどパーティーバッグみたいなPRADAを持って来ていて、何故か1日目はスーツケースの中だったのに2日目はガーデンパーティーの中に入れていたんです(^_^;) お陰で後半の疲れた時間帯は大きなバッグはバスに置いたままにして、身軽に行動できました。

 

と言うことで、早速、四条大宮駅から徒歩移動開始。

最初に向かったのは光縁寺。

ここは屯所と馬小屋の間にあり、山門の瓦と山南敬助の家紋(丸に右離れ三つ葉立ち葵)が同じだったことから、このお寺に親しみを感じるようになったそう。

山南敬助、河合耆三郎、松原忠司、谷三十郎、そして野口健司など数多くの新選組隊士が眠るお寺です。沖田家縁者と記されたお墓もあり、「京都で恋仲になったものの添い遂げることができなかった娘さんではないか?と言われいてる」との説明がありましたが、これが通説なのかどうか、私には知識がなくて分かりません。

松原忠司は【壬生心中】という名前で子母澤寛さんが昭和8年に突然発表した話に関わっているのですが、これは創作ではないか?とも言われているとか。

 

次にこのツアーの目玉の一つである、旧前川邸へ。

なぜ前川邸は「旧」が付いて、八木邸には付かないか・・・という点については(私は気にしたことも無かったけれど)、前川邸だった場所は今は別の方が住んでいらっしゃるから。ちなみに、八木邸は今も八木家がお住まいになっていらっしゃるそうです。

さて、この旧前川邸では普段は公開されていない土蔵内を見学する機会に恵まれました。こちらは【写真撮影はOKだけれども、ブログやソーシャルメディアへの掲載は不可】とのお達しが事前にありましたので、文章のみで綴ります。

人数が多いので2つのグループに分かれて見学することになり、私たちは最初に土蔵見学をするグループでした。

まず最初に西の蔵と東の蔵(今回見学する貴重品を保管していた倉庫)についての説明。

どちらも同じ時期に建て始めて、西の蔵は天保6年に、東の蔵は天保8年に完成。この2年の差は蔵に保管する物の違いが大きな理由で、西の蔵は主にお味噌など食料品の貯蔵用、東の蔵は貴重品の保管が目的だったそうです。

貴重品の保管ということで、東の蔵は入り口が四重になっていて、かなりセキュリティーを考慮して設計されています。そして、この東の蔵で「枡屋喜右衛門こと古高俊太郎」が拷問を受け、池田屋事件へと繋がりました。

この蔵の瓦には御所出入りの門艦(三重丸)があり、前川家は京都守護職所司代の会計に関わっていたそうです。

蔵に関する詳細およびアップすることの出来ない土蔵内の画像については、旧前川邸のサイトにあるようなので、そちらをお読み下さい。

個人的には、土蔵内(上の階)で木村さんが「古高俊太郎と毛利藩主の関係」について話していた内容を聞き漏らしてしまって(メモをとっていたけれど、内容が豊富で間に合わなかった・・・)、非常に悔やまれます(>_<)

この土蔵から八木邸が見えるのですが、芹沢鴨暗殺の当夜、土方歳三たちはここから灯りが消えるのを確認して乗り込んだと言われているそうです。

 

旧前川邸を後にした私たちが次に向かったのは、新徳禅寺。

ここは清河八郎が「我々は尊皇攘夷を掲げる者である」と無理矢理、血判を押させてまた江戸へと戻ることを宣言したとされる場所だそうです。この時に残ったのが芹沢鴨や近藤勇を始めとする13名と言われていますね(人数が間違っていたら、後で修正します)。

 

そのまま徒歩ですぐ近くにある壬生寺へ。

壬生寺は勅願寺(天皇が参拝するお寺)だそうで、とても広い境内があります。

新選組はここを軍事演習の場として使っていたそうです。

壬生寺側は「毎月◯の日には軍事演習しないように」というようなお達しを出していたらしいのですが、まったく守られることが無かったそうで、瓦が破損するわ、お寺なのに空砲が日常的に鳴り響くわ・・・で、大迷惑だった模様。

新選組が壬生から西本願寺に屯所を移してホッとひと息ついたかと思ったら、やはり西本願寺でも色々言われ、屯所移転後しばらくして、ここ壬生寺で軍事演習が再開されたとのこと。

当たり前だけど新選組だって荒くれ者の部分はあった訳で、だからこそ西本願寺侍臣だった西村兼文は新選組が大嫌いで、そういう新選組の影の部分を誇張して新選組始末記に著したと言われていますよね。

物事は色々な角度から解釈できるし、西村さんの意見もそちらの立場の人から見たらもっともな説なのかもしれませんね(西村さんの新選組始末記はまだ読んでいないので分かりません)。

 

ここ壬生寺には芹沢鴨と平山五郎のお墓があります。

前々回の釣先生の勉強会で、新選組研究家として名を馳せている方々が芹沢鴨の亡くなった日を9/16として新しい説を唱えていること、それについての検証などの講義を受けました。

初代のお墓に刻まれていた「9月18日卒」の「卒」が2代目では消えてしまったのが、この物議を醸し出した要因のようなのですが、最近建て替えられたという3代目のお墓は初代の復元ということで「9月18日卒」としっかり刻まれているのを確認して来ました。

 

本当は前日にpolarisさんから教えてもらっていた情報で壬生寺ではお買い物をしたかったのですが、そんな時間は一切なし。

っていうか、ちょっとココで愚痴。

参加者がすごく多くて(50名弱)、団体での移動だからお墓にしても石碑にしても1回で近付ける人数がとても少ないのに、周りのことを気にしない大人ばっかりで本当にイライラしました。

新選組の何に対してシンパシーを感じているのか???譲り合うことも出来ないって、何なの!?

お陰でターボさんと私はいっつも一番最後で(皆さんが我先に・・・と行動するのを眺めているから)、そうすると木村さんとご一行はすごーい先に進んでいて。全体の様子を見ている京都新聞旅行社の添乗員さんは私たちのことを「いつでも最後で遅い、団体行動ができない人たち」くらいに思っていたんじゃないかしら?

本当に不愉快だった。これは最初から最後まで変わらず(メンバーが一緒なんだから、変わる訳ないけどさ)。

「周りの人全員が木村さんの説明が聞こえるように」って配慮していると結局は一番後ろになってしまって、何を言っているのか聞こえないっていうことも何度もありました。

 

はー、もうキリがないから愚痴はこれで終わり!

 

お次はやっとバスに乗って、島原へ。正味10分くらいの乗車かな・・・次がお昼休憩じゃなかったら、暑さも手伝ってイライラ度MAXになっていたかも。

島原では1時間しかお昼休憩がなくて(お手洗いが1ヶ所なので余計にお店を出るまでに時間を要する)。本当は無理しないで徒歩1分くらいの場所にある島原の大門だけを見学しに行けば良かったのだけど、小走りで輪違屋と角屋を見に行きました。

ここでは集合時間より1分遅れてしまって。これは完全に私たちが悪い。お待たせした皆さまには、申し訳ありませんm(__)m

 

午前中だけでも盛り沢山の史跡巡り、そして木村さんのお話でしたが、午後もまだまだ多くの場所を訪問します。

 

午後のツアーについては、また次のブログに書きますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1 個のコメント

  • 「古高俊太郎の母方祖父が、妻(俊太郎の祖母)の没後に後添いを迎えた。その後添いはかつて徳山毛利家八代広鎮に仕え、男子を産んだこともある」とかで、その根拠となる史料が確認されているようです。
    そして、毛利広鎮が別の女性に生ませた男子が、萩毛利家へ養子に入って十四代元徳となりました。
    つまり古高は、毛利家とは直接の血縁関係ではないが親戚と言えなくもない、という程度の関係。それでも当時は有用なコネクションだったらしいです。

    当日お聞きになったでしょうが、壬生寺は勅願寺であった関係から、かつて一般人の墓所はなかったそうですね。新選組隊士の墓は、もともと壬生村の共同墓地に建立され、昭和期に壬生寺境内の壬生塚へ移されて現在に至るということです。
    共同墓地には、八木家など地元の方々のお墓があります。

    団体行動の残念な側面について、お気持ちは大変よくわかります。
    団体でのみ入場できる場所はともかく、特に制限のない場所は個人で行ったほうが清々するでしょうね(笑)

    ご多用と存じますので、お返事については何卒お気遣いなさらないでください。

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