第50回 一から始める新選組勉強会

 

こんばんは。遅咲きの桜鬼、改め、masakoです。

自分のハンドルネーム(HN)すら忘れかけていたくらい久し振りのブログです(>_<) 元々アメブロで作ったHNですし、全く馴染まないのでこのHNは止めることにしました。

masakoはヒーラーネーム(個人ヒーリングサロンを開業しています)。見ればお分かりの通り、本名をアルファベットで表記しただけのこと。

アメリカの大学に在学していた4年間、私はずっと自分の名前をすべて小文字で書いていたのです。ついこの前まで4年間住んでいたオーストラリア・シドニー(これは主人の仕事で)でもそうしていたから、使い慣れた表記にしています。

さて、話が横道にそれてしまいましたが、肝心の勉強会について。

2015年10月の【一から始める新選組勉強会】は第50回という区切りの回。と言っても、釣先生いわく「3回目くらいの第50回」だそう。

そしてテーマは新選組隊士の中でも幹部中の幹部である、永倉新八についての検証でした。

 

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お話振りを聞いている限り、「永倉新八が生き残ったのは新選組から逃げたから」というのが釣先生の見解のようです。その上、「まだ新選組が瓦解する前に新政府側に寝返った」というお考えをお持ちのようです。

私の記憶が正しければ、斎藤一についても同じように仰っていたように思います。

どちらも天寿を全うしそれなりの生活を送ったけれど、それは単に最後まで新選組として戦わなかったから。

それを本筋と考えると、五稜郭まで戦った島田魁がかなり生活に窮したのも納得のような気がします。

組織上では斎藤一や永倉新八よりは下だったとは言え、島田魁だって幹部の一員だと思うし、2人とはあまりにも対照的なその後という印象なので(あくまでも現時点での理解に基づく考えです)。

 

永倉新八が慰霊碑を建てることに奔走したのは、「混乱の中で散り散りになって江戸へ向かったものの近藤勇たちと合流できなかったのではないか? (喧嘩別れが原因ではなく)生き別れになり、結果的に新政府軍側に寝返ったことへの懺悔の気持ちからではないか?」という釣先生の見解は一理あるなと思いました。

と言うのも、永倉新八が松前藩に帰藩したのは戊辰戦争が終わる前。それは新政府軍側に寝返ったことを意味します。

私自身はそういう観点から考えたことがありませんでしたし、本にあることが事実(全て)だと思っていました。特に永倉新八は自分で書き残したものがありますし。

でも、釣先生の考え方を仮定として考えた時に、何となくしっくり来る感じがするのも事実です。

とは言え、永倉新八なりに新選組の汚名挽回に務めたことは確かで、彼が遺したもののお陰で明らかになった事実も多いので、彼は許されるべきだろうと釣先生が仰っていました。

 

他には永倉新八の生年月日(2つの説がある)、新選組の漢字は「選」と「撰」のどちらが正しいのか、菊池明氏が主張している永倉新八の埋葬に関する説の問題点、内山彦五郎殺害事件などについての話題が出ました。

 

毎回、釣先生のお話を聞いているだけでその時の様子が浮かんでくるような不思議な時間で、あっという間に講義が終わってしまいます。

今月は明後日11/12(木)の19時からで、河合耆三郎および田内知についての予定だそうです。

開催場所や詳細はこちら(↓)から。予約は特に不要のようですよ。

 

第51回 一から始める新選組勉強会

 

 

河合耆三郎は本で読んだ程度の知識で、田内知については全く分からないので楽しみです。