新撰組顛末記(付録部分)

おはようございます。遅咲きの桜鬼です。

私の住む地域は時折強い風が吹く程度では止んでいますが、高校生の娘は急きょ自宅待機(=休み)になって大喜びしています

台風の影響を強く受けている地域にお住まいの方もいらっしゃると思います。進行速度がゆっくりのようですので、天気予報をこまめにチェックして、外出時は気を付けてお出かけ下さいね。

昨晩から今朝にかけて、【新撰組顛末記】の付録部分のみを読みました。

何だかね~、すごい高揚感を覚えて、言葉でどう表して良いのか分らないような感情が渦巻いています。

以前にも何度か書いたように、この本はご子息が永倉新八さんの十三回忌に合わせて私家本として旧知の方々に差し上げるために出版した【新撰組永倉新八】が元になっています。

そして、単行本には8つ収録されている史料が、文庫版には1つしか収録されていない。しかも、今の私たちが手に入れられるのは文庫版の方っていう但し、必死に探せば、新品&定価の単行本を扱っている本屋さんも見つかるはず。

この付録史料を書いているのはご子息や私家本出版に協力をした方々なのですが、例えば今となっては当たり前の情報として知られている高幡不動尊にある「近藤勇と土方歳三の石碑」が見つかった経緯について。

永倉新八さんが遺した石碑の写真をご子息が知人に見せ、「もし何らかの手がかりを得たら知らせて欲しい」と伝えたことがキッカケでその場所が判明したようなのですが、偶然が重なったというより必然と思えて、とても興味深く読みました。

そして、坂本龍馬暗殺に関する考察として、山川健次郎さん(文学・理学博士、男爵)の手紙がご本人の了承を得てそのまま掲載されています。

昭和初期までは下手人は今井信郎という人というのが定説でした。それは「本人が取り調べにおいて当事者でなければ分からない些細を語ったから」というものに拠ります。

でも、実際は京都見廻組の佐々木只三郎の命によるもので、判明している3人の下手人の中に今井信郎は含まれていなかったようです。その下手人たちの名前も手紙には記されています。

これが今現在も有力な説として受け留められているものなのではないでしょうか(と言っても、坂本龍馬についてほとんど何も知らないので、あくまでも山川博士の手紙を読んだ私の理解なのですが・・・。)

この手紙を読んだ時のご子息の驚嘆ぶりが目に浮かぶようです。

新選組の本を読むなら最初は子母澤寛さんの【新選組始末記】だと思っていたけれど、永倉新八さんの【新撰組顛末記】か【新選組奮戦記】を最初に読んでも良いのかも・・・と考えるようになりました。

新選組の発足当時から幹部隊士として活躍していたご本人による回顧録なので、史料としてとても貴重ですし、私たちでも読みやすい現代文で書かれているという点もお勧めの理由。

ただ、江戸にいる頃の様子は永倉新八さんの周囲についての記述がメインで、流山以降の話は短い記述しかないので、新選組全体の話として見るには他の本が必要になってきます。

すでに通説となっていることも、この【新撰組顛末記】や【新選組奮戦記】が無ければ分からなかった部分も多々あるという意味で、非常に貴重な本であることには間違いありません。

今は多くの本が出版されているし、インターネットという便利なツールのお陰で個人のサイトやブログなどでも情報が網羅されています。

それでも、もし新選組について学びたいと思っているなら、子母澤寛さんの新選組三部作シリーズ、永倉新八さんの【新撰組顛末記】または【新選組奮戦記】、そして平尾道雄さんの【定本 新撰組史録】は購入してお手元に残すことをお勧めします。

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つい先日、東屋梢風さんからコメントを頂いて初めて知ったのですが、平尾道雄さんの本は西村兼文さんの【新選組始末記】や子母澤寛さんの【新選組始末記】と並んで、新選組研究のバイブルと呼ばれていたほど有名らしい(コメントを頂いた記事はこちら)。

今日は荷物の受け取りの関係で1日予定を空けているので、これから【定本 新撰組史録】を読み始めようと思います。

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この記事を書いた人

このブログは2010年から2014年まで、オーストラリア・シドニーで過ごすことになった子供たちの記録を綴るために始めました。
子供たちが大きくなるにつれて、私自身の趣味についての記事が増えています。
好奇心旺盛で、自分で調べて様々なことに挑戦することが好きです。

コメント

コメント一覧 (2件)

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    ご存じかもしれませんが、高幡不動の「殉節両雄之碑」について。
    『新撰組顛末記』収録資料には、明治9年建立とありますが、これは碑文が出来上がった年です。
    実際に碑が建ったのは、それから10年余を経た明治21年でした。
    建立の発起人は、同書のとおり、近藤や土方の郷党たる人々です。
    「いずこの人であるかわからぬ」と言われてしまった橋本政直は、小島鹿之助と同じく小野路村(町田市)の住人、天然理心流の門人、土方家の親戚であり、歳三と親しかった様子です。
    建立のニュースはそれなりに広まり、当時東京に住んでいた杉村義衛(永倉新八)もこれを聞き知ったので、碑面の拓本を入手できたのでしょう。
    ただ、子息の義太郎は、碑について聞かされておらず、北海道在住が長かったこともあり、残された拓本を見ても所在地を判断できなかったものと思われます。
    ご旅行前のお忙しいところに失礼しました。
    コメントお返しは後日でも結構ですから、どうぞお気遣いなさらないでください。

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    >東屋梢風さん
    おはようございます。
    そういう経緯があったのですね!コメント欄でご教示いただくには勿体ないような情報を教えていただき、ありがとうございます。とても貴重な内容なので、メモ帳に保存しました(^_^;)
    6月と7月に高幡不動駅を利用して新選組を巡るプチ散歩をしたももの、時間の関係で高幡不動尊には足を運んでいません。次に訪問する機会があれば、高幡不動尊に立ち寄ってからにしようと思います。

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