新選組の足跡に触れる京都への旅⑤

 

 

ここからは、京都新聞旅行社主催の「霊山歴史館・木村武仁学芸課長と巡る 新選組の幕末京都」(日帰りバスツアー)中盤編です。

お昼休憩の後、再びバスに乗って移動した先は興正寺。

幕末の頃、ここ興正寺は勤皇派だったらしく、長州藩士をかくまったり、お坊さん達が戦っていたらしい。

いや、戦いは他の人に任せて、素直に仏の道だけに進んでおけよ。結局、お坊さんって言っても世俗にがんじがらめだったのね。人に説法なんてしなくて良いから、自分を磨け!・・・って思っちゃったのは内緒(笑)。

 

その後は隣接する西本願寺へ。

西本願寺は豊臣秀吉が大阪から招いて京都へ移ったそう。木村さんが色々なお話をして下さったのですが(西本願寺と東本願寺に成り立ちやその後)、政教分離の正反対を行く、むしろ強力なタッグを組んでいる様には呆れる。いつの世も、男って生き物は権力が好きなのね・・・バカみたい(あくまでも私の心の中の言葉ですから)。

ここは壬生の八木邸・前川邸を離れて新選組が2番目の屯所とした場所です。

実際の屯所として使われた施設(=北集会所)は姫路城(東屋梢風さんの情報では、本徳寺だそうです。詳細はコメント欄をお読み下さい。)に移築されているそうで、今は違う建物があります。そして、その屯所跡の向かい側に太鼓楼があり、ここは軍事演習などの際に太鼓の鐘を使って知らせる時に使われていたとのこと。

外からの見学のみでしたが、日陰だったので、木村さんが色々なお話を聞かせて下さいました。

医師・松本良順が隊士の健康状態を診断したら1/3が病人・怪我人で衛生状態もひどく、改善のためにお風呂を作り、鶏や豚を飼って食材にするよう勧めたのはこの場所だそうです(一瞬、薄桜鬼のスチルが目に浮かびました)。

 

次は油小路の変があった場所へ。

途中、中井小五郎に関する石碑があり、ここで彼についての説明がありました。

中井小五郎は奈良・十津川藩出身で、坂本龍馬に自分の意見を伝えたところ、10歳以上も年下の自分に対して年齢差など関係なく意見交換に応じてくれたことに感銘を受け、坂本龍馬を尊敬するようになったそう。そして、坂本龍馬暗殺の知らせを聞いた時、暗殺者を殺害すると心に決めたようです。

当時、三浦久太郎がその暗殺者という噂があり、新選組が護衛していたのですが、天満屋に押し入って三浦久太郎を殺害しようとして討ち死にしたのが中井小五郎とのこと。

そう言えば、永倉新八の本か何かで、「斎藤一が護衛していてその場に立ち会った」というようなことが書いてあったような・・・はぁ、この鈍い記憶力をどうにかしたい(>_<)

この三浦久太郎は明治以降に今で言う東京都知事や元老院議員を務めたそうですが、この時に中井小五郎と共に襲撃した側の陸奥宗光も同じく元老院議員になったらしく、「顔を合わせた時にどうだったんでしょうね!?」と木村さんが仰っていたのを覚えています。

 

この先に油小路の変があった場所があるのですが、往来の激しい道路なので、近くの日陰になっている駐車場で説明を聞きました。

順番は逆になるけれど、油小路の変の現場を通ってから本光寺へ。

ここ本光寺は伊東甲子太郎が亡くなり、2日ほど野ざらしにされた場所です。

門の中に石碑があるのですが、つい最近までこの中へは入れなかったそうです。ご住職とご近所の方(あるいは檀家さん?)数名が私たちを出迎えて下さり、「お参りに来て下さって、ありがとう。」と何度も仰っていました。

今はご住職がいらっしゃって、いつでも門の中に入れるとのこと。そして、11月18日には伊東忌が催されるそうで、「ぜひ足をお運び下さいね」とお声を掛けていらっしゃいました。

 

本光寺を後にした私たちは、最後の屯所と言われる不動堂村屯所跡地へ向かいました。

現在は少なくとも2ヶ所が跡地の可能性があるとされているそうで、最初に不動明王院にほど近い京湯元ハトヤ瑞鳳閣の前へ。

そして、従来から跡地と言われているリーガロイヤルの前へ。

屯所が残っていないこと、場所の記載が「七条通り下ル」とか「七条堀川下ル」というような曖昧なものであるために所在地の特定が難しいそうです。

 

この後バスに乗り込んだのですが、そこが近藤勇の妾宅(深雪太夫と暮らした家)の跡地である安寧小学校でした。そのすぐ先のガソリンスタンドがある辺りは、原田左之助が奥様とお子さんと一緒に住んだ場所とのこと。

 

このまま書き続けようと思ったのですが、もう充分長くなってしまったので、ここで一旦終わりにします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

このブログは2010年から2014年まで、オーストラリア・シドニーで過ごすことになった子供たちの記録を綴るために始めました。
子供たちが大きくなるにつれて、私自身の趣味についての記事が増えています。
好奇心旺盛で、自分で調べて様々なことに挑戦することが好きです。

コメント

コメント一覧 (2件)

  • 西本願寺北集会所の移築先は、姫路市亀山の本徳寺です。
    本願寺史料研究所の公開講座で、講師の方もそのように仰せでした。

    陸奥宗光は元老院で三浦久太郎を見かけ、「瞼の傷跡から頻繁に涙がこぼれ、何度も拭いていたのが気の毒だった」などと感慨を洩らしていた、と伊東成郎氏の講演で聞いた記憶があります。自分達が負傷させておいて、気の毒も何もないでしょうに。

    不動堂村の屯所跡は、池田七三郎(稗田利八)と西村兼文の証言を根拠にすれば、ある程度は絞り込めます。
    少なくともリーガロイヤルホテルの場所は証言に合致しませんし、もともと不動堂村(不動堂町)でもありません。だいぶ前にある研究家が、適当なランドマークが他になくてホテルの名称(当時は京都グランドホテル)を挙げたら、それが拡大解釈された様子です。
    瑞鳳閣のほうがまだ近いものの、やや南へ外れているように思われます。

    京都中心部の新選組史跡めぐりに最適なガイドブックとして『ふぃーるどわーく京都 西』『ふぃーるどわーく京都 東』をお薦めします。
    詳しいお友達が同行されるならご不要と思いますが、それ以外の時はお役に立つでしょう。不動堂村屯所跡の考察も含め、いろいろと詳しく載っています。
    (※私家本のため一般書店には流通していません。ここにURLを貼ってよろしいかどうかわかりかねますので、キーワード検索してみてください。)

    ご多用のご様子ですが、ご体調にお気をつけてお過ごしください。

    • 東屋梢風さん、こんばんは。段々と秋が深まってきましたが、お元気にお過ごしでしょうか?

      姫路市の本徳寺に北集会所が移築されたのですね。私が姫路城と聞き違えたのかもしれません。ご訂正ありがとうございます!

      陸奥宗光の回想録は、私も何かの本で読んだことがあると思い出しました。戦っていた頃を思えば、ずいぶんと様変わりした中での再会だったのでしょうか・・・。

      最後の屯所跡地に関する情報やガイドブックのご案内、ありがとうございました。また京都を訪れる機会があったら、ぜひ参考にさせて頂きますね。

      合葬のことも、先月の釣先生の勉強会についてのブログも書いていないのに、来週には今月の勉強会があります(>_<) 忘れない内に何とかしなければ!

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

目次